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『シルクロード旅行(旅の終わり)』
2006-08-30 Wed 22:51
深い眠りから目を覚ます。
午前8時前。
時差の関係で,外はようやく明るくなってきたところ。
ホテルの食堂で簡単な食事を済ませて,午後9時過ぎにホテルをチェックアウト。タクシーでカシュガル空港に向う。
20分ほどで空港に到着。
タクシーから降りて,カシュガルの街を振り返ると,街の向うに万年雪を抱いたカラコルム山脈が見えた(写真①)。
しばらく山脈の雄姿に見惚れる。あの山脈の向うはパキスタン。かつて玄奘は昨日曉一行が通ったカラコルムハイウェイのあたりを通って,インドに向った。あの山脈を越えて行こうとする勇気,そこまでして自分は信念を貫き通すことができるだろうか。
やはり玄奘は常人ではない。

搭乗手続きをすませて,10時50分の海南航空(なぜ,新疆で海南なのだろうか?航空会社の統廃合の関係か?)に乗り,ウルムチに飛ぶ。

ウルムチ空港には,1時間半ほどで到着。
ここで15時45分の上海航空の飛行機に乗り換え,上海に向けて飛ぶ。
機中,曉は今回の旅行記の編集に忙しい。
ワイフはぐっすりと眠っている。乗ること4時間半,上海虹橋国際空港に着いた。北京,西安,敦煌,トルファン,ウルムチ,カシュガルと乾燥した地域を旅行したため,飛行機から出た瞬間,生暖かい空気が肌に触れるのを感じた。とうとう上海に帰ってきた。
長いような,短いような12日間だった。緊張が少し解れたのか,頭の芯が少し重い。
今日はゆっくり休もう。

今回の旅行は,一言で言うなら,「棄てる神あれば,拾う神あり」。
北京で歓待してくれたHP先生,L老師夫妻,敦煌で曉一行の行く手を遮った某旅行社嘉峪関支店の人たち,曉一行をトルファンへ導いてくれた敦煌のガイドTさん等々,甘さと苦さ,中途半端な味など一切ない濃厚な旅だった。

30年後,40年後,機会があれば,またシルクロードを旅してみたい。
ワイフ曰く,次回旅行する時は,少なくとも四星以上のホテルを予約してくれとのこと。泊まるところがしっかりしていれば,少々のことにも耐えられるということらしい。
女心は難しい。
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『シルクロード旅行(第4章②)』
2006-08-29 Tue 22:47
午後9時,ホテルのロビーでガイドのGさん(ウイグル族,推定32歳,知性的な美人)と会い,曉一行はファルクスワーゲン・サンタナに乗ってカタクリ湖を目指す。
カタクリ湖はカシュガルからカラコルムハイウェイを走ること200キロ。パキスタンまで,あとわずか200キロのところにある。カタクリ湖(海抜3600メートル)はパミール高原の中にあり,このパミール高原は6000メートル級から7000メートル級の山が連なることから,世界の屋根とも呼ばれる。
道中,ガイドのGさんは,ウイグル族やカシュガルのことをいろいろ教えてくれた。
例えば,①ウイグル族は13世紀以前は仏教を信仰し,イスラム教の普及とともに改宗したこと,②モスクには女性は立ち入ることはできず,お祈りは家ですること,③男性が亡くなった場合,モスクに運ばれ,葬儀が行われるが,女性の場合は家で葬儀を行うこと,④ウイグル族は漢族と結婚してはならないという不文律があり,多くは見合いで結婚すること,⑤以前ウイグル族の女性は13歳ぐらいで結婚したが,最近は22歳ぐらいで結婚する人も増えたこと(Gさんは27歳で結婚,カシュガルでは超晩婚ということらしい)等々。

カラコルムハイウェイはよく整備されているのだが,それでも途中洪水で路の半分が崩れ落ちてしまっているところや,崖崩れで道の大半が土砂に覆われているところ,雪解け水が路に流れ出ているところ等々,危険なところも少なくなかった。
街でタクシーを拾って行けば,格安の値段でカラクリ湖まで行けるということだが,去年イギリス人女性3人連れがタクシーでカラクリ湖を目指し,途中崖から落ちて亡くなったらしい。少々お金を出してでも,山道に慣れた運転手を手配した方がいい。
カラクリ湖まで,4時間以上かかっただろうか(途中道路工事に遭遇し,1時間以上待たされた。皆文句も言わずにじっと待っていた。なんて忍耐強い人たちなんだ!)。
カラコルムハイウェイの風景は,変化に富み素晴らしい。
燃えるような赤い山(写真①),酸化鉄を含む土質のために山肌が赤くなるとのこと。
羊を放牧するキルギス族(写真②),極寒の冬もキルギス族はパミール高原に留まり生活を続けるそうだ。
荒々しい氷河を抱くコングール山(写真③,標高7719メートル),山頂には雲がかかってよく見えないが,曉が立ってみている地点からでも,4000メートル以上の高さがある。驚きだ。
カラクリ湖に到着。カラクリ湖は少しくすんだ青色。
湖畔からコングール山(写真④)は見えるのだが,第二の高峰ムスターグアタ山(標高7546メートル)は雲で見えない。
山の天気は変わりやすい,残念。
天気がよければ,湖面にムスターグアタ山の雄姿が映り,絶景だったにちがいない。

湖畔を散歩していると,付近に住むキルギス族の人達が,馬に乗って,或いは馬を引き連れて,押しかけてきた。一瞬襲われるのかと思ったが,皆片言の中国語で馬に乗れという。
明日は上海に帰らなければならない。
旅の最後の思い出にと,曉一行は最初に声をかけてきた二人の若者の馬に乗ることにした。
10分5元だという。
馬に乗ると,はるか彼方の自分たちの家を指し,「俺たちの家!俺たちの家!」と言って,駆け出した。
これには,馬に乗りなれていない曉とワイフも驚いた。スピードを落とせというと,ゆっくり馬を引き出したが,彼らの狙いは自分たちの家に招待して,いろんな物を買ってもらおうということらしい。
曉が「ガイドが待っているから,引き返してくれ。」というと,素直に元の場所に引き返してくれた。
ただ,その後,玉で作った首飾りや銀で作った首飾りを出し,買え買えという。金がないというと,曉が左手首につけている腕時計と交換しようという,なかなかしつこい。
「5元(75円)なら買ってもいいよ。」というと,それ以上物を売りつけようとしなくなった(馬を降りたとき,10元でどうかと言ってきたが,,,,)。
馬を降りて,キルギス族の一団から少し離れたところで休んでいると,目ざとく曉一行を見つけた少年が馬を駆ってやってきた(写真⑤)。幼い頃から馬に乗っているだけに,少年の手綱さばきは大したものだ。
カラクリ湖の壮大な景色を楽しみ,再びカラコルムハイウェィを通ってカシュガルへ。
ワイフは疲れたのか,ぐっすり寝ている。
曉は,サンタナの車中で,この旅行記を書く。道路工事に遭遇がなかったということもあるのだが,カシュガル市街には2時間半ほどで着いた。
その時,事件が起こった。
Gさんがカシュガルの日曜バザールを案内してあげるというので,市街中心部を移動中,サンタナが突然動かなくなってしまったのである。
何の前触れもなく,理由も分からない。
Gさんも曉一行も車を押したが,どうにもならない。
しかし,考えるだけで恐ろしい。
もし山中或いは砂漠の真ん中で車が動かなくなっていたら,どうなっていただろう。
灼熱の太陽のもと,カシュガル行きの車が来るのを待つしかない。
あのサンタナは,曉一行を何が何でもカシュガルまで連れて行かなければならないと頑張ったのだろうか。
そう思うと,鉄の固まりのサンタナが,血の通った馬かラクダに見えてきた。
「サンタナ,よく頑張ったな。立派に職務を果たしたぞ。」。

Gさんと曉一行はサンタナと運転手その場に残し,タクシーを拾ってバザールへ。
Gさんに案内してもらった日曜バザール(写真⑥⑦)の名の由来は,かつて日曜日しかバザールをしてはならないと規制されていたためで,実際には毎日人で賑わっている。
Gさんの話によると,カシュガルの日曜バザールは新疆最大で,3800もの店が軒を連ね,日曜日には10万人もの人で賑わうらしい。今日は,月曜日だが,それでもかなり人が出ていた。
今日で曉一行のシルクロード旅行は終わる。
最後のバザール,曉もワイフも知人友人,親戚の子供のためのお土産を買った。3800店舗がしのぎを削るだけに,シルクなどのスカーフや衣類,煌びやかな小物がびっくりするほど安い値段で買える。
こんなことなら,ウルムチで買う必要などなかった。

旅の終わりに買い物を楽しみ,ホテルに帰り,新疆最後の夕食。ホテルのフロントの女性に,「新疆最後の夜なんだけど,美味しい新疆料理の店を紹介してくれないか。」と言うと,「ホテルの敷地内のレストランが美味しいですよ。」とのご回答。
そうだよな。
そう返事するよな。ありがとう,お姉さん。
しかし,確かに,ホテルの中のレストランの料理は美味しかった。お姉さんは少なくとも嘘はついていないということか。楽しいことは,あっという間に過ぎ去る。
上海を出発したときは,12日間の旅行はさすがに長いなあと考えていたが,何のことはない。「もう終わり?」と正直思う。荷造りをして,旅の疲れをとるため,今日は早めに就寝。


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『シルクロード旅行(第4章①)』
2006-08-28 Mon 22:41
午前10時半ごろ博物館に行き,新疆ウイグル自治区で発見された古代の遺品や楼蘭で発見された数体のミイラを観る。
楼蘭の美女は,以前日本で見たことがある。
何処で開催されたかは忘れたが,特別展のようなものが日本で開催されたことがあるはずだ。楼蘭の美女の遺体を分析し,再現した蝋人形も展示してあった。歌手のマドンナに似たセクシー系の美人だ。ミイラを観ても,何故か気味悪さを感じない。3000年以上も昔の遺体となると,もうそれは人の死体ではなく,遺跡の一部と受け止めるようになるのかもしれない。

ウルムチ空港午後1時10分発の飛行機に乗って,最終目的地カシュガルへ。フライト時間は1時間半,北京時間午後3時にはカシュガル空港に到着。
タクシーに乗って,宿泊先の色満ホテルに向う。
タクシーの運転手に,色満ホテルはどんなホテルだと聞くと,「カシュガルで一番古いホテルだ。わざわざ何であんなホテルに泊まるんだ。今のカシュガルには新しいホテルは一杯あるぞ。お金払っていないんだったら,いいホテルを紹介するぞ。なに?旅行社に既にお金を払っている?可愛そうに,どうしようもないな。」等々言いたい放題。
西安のときのタクシーの運転手のときと同じ展開,もしかしたら西安のとき同様,何だかんだ言って,いいホテルなのではないだろうか。否,期待はすまい。後がつらい。

20分ほどでホテルに到着。
確かに古いが(このホテルは,かつてロシア帝国時代の領事館の敷地に建てられた。旧領事館も民俗工芸館として現に使用されている。),風格があって(写真①②),なかなか趣きがある。ホテルマンの対応もキビキビしていて心地よい。
荷物を置いて,外に繰り出す。
ホテルから600メートルほどのところに,新疆屈指のモスク,エティガール寺院(写真③)があり,そこまで散歩。
寺院の中に入ると,そこは静寂の空間。頭に白や黒の帽子をかぶったウイグル人が西に向ってお祈りをしていた。イスラム教徒と聞くと,何か得体の知れない危ない人たちというイメージを持ちがちだが,
一般のイスラム教徒は日々真面目に生きる普通の人たちだ(朝早くから,家の周りを掃き清めている。ウイグル人は非常にきれい好きである。)。
20060906142838.jpg
写真③エティガール寺院


エティガール寺院の次は,アバク・ホッジャ陵墓(写真④)。
20060906142508.jpg
写真④アバク・ホッジャ陵墓


ここは,17世紀ごろ新疆南部を支配したイスラム教指導者アバク・ホジャとその家族の墓である。彼の孫娘(香妃)は,清朝乾隆帝に気に入られ,彼の後宮に入ったということである。後に権力闘争に巻き込まれ,自殺を強いられたという悲劇の女性でもある。彼女の遺体はこの陵墓に葬られているという伝説があるが,実際には別の場所に埋葬されているようだ。きっと,後宮に入った後も故郷を思い続けた彼女の一念が,このような伝説を生んだのだろう。

その後は,エティガール寺院付近の職人街へ。
帽子やアラビア風の壷,楽器,指輪やネックレスといった貴金属が並ぶ。ネックレスなどは,なかなか精巧で。金額は,デザインではなく,重さで決める。職人相手の値引き交渉は,困難を極めた。

明日は,カラクリ湖(海抜3600メートル)に行く予定。
ホテルに早めに戻り,ホテルの敷地内にあるジョンズ・カフェで食事をとる。
ここはバックパッカーが情報を求めてやってくる場所。
若い欧米人のバックパッカー達が,コーヒーを飲んだり,ビールを飲んだりしながら,本を読んだり,談笑したりしている。
年配の日本人は,カシュガルでもよく見かけるのだが,曉と同世代或いはそれ以下の若い人達には,何故か出会わない。
シルクロードの旅は,若者には人気がないのだろうか。シルクロードは汽車とバスを乗り継げば,びっくりするほど安い費用で旅行することができる。
今回,曉は幸運にも千載一遇のチャンスを得て,シルクロードを旅行することができた。働き始めると,なかなか長期間の休暇をとることはできない。シルクロードは,時間のある学生時代に行くのがいいのかもしれない。
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『シルクロード旅行(第3章②)』
2006-08-27 Sun 22:38
朝食後,昨日ガイドのA君と行ったバザールに行く。
朝から大勢の買い物客で賑わっている。バザールの中を見てまわり,昼食用にサモサとナンを買う。
A君によると,ウイグルには百種類あまりのナンがあるそうだ。
確かに,いろんな形をしたナンが売られている(写真①)。
ホテルに戻って,さっき買ったサモサとナンを食べ,チェックアウトをして,トルファン・バスセンターへ向う。
トルファンからウルムチへの移動はバス。
日本で言うところの高速バスのようなものか。
新疆では,ウルムチを起点として,バスの路線が各地にのびている。トルファンからウルムチへは,約2時間半。バスは割りと新しい型で,車内も清潔で何の問題もない。
ゆっくり休もうと考えていたのだが,窓の外に広がる風景が素晴らしく,眠ることができない。車中,ずっと外の風景を眺めていた。夏であるにもかかわらず,雪化粧をした天山山脈,その天山山脈をバックに,草原を悠々と移動する野生のラクダの群(写真②)。目の前に広がるパノラマに茫然と見惚れ,2時間半はあっという間に過ぎ去ってしまった。
20060906142241.jpg
写真②


宿泊先のホテルにチェックインし,先ずは次の目的地カシュガル観光の手配をする。
ウルムチは新疆ウイグル自治区の中心地で,それなりに発展した都会。正直言って,面白味にかける。郊外に行けば,風光明媚なポイントは多いのだが,曉一行の今回の旅行におけるウルムチの位置づけはカシュガル観光のベースキャンプ。気が張っているためか,特に疲れは感じないが,相当疲労がたまっているはず。
カシュガル観光の手配をしたあと,楼蘭の美女(ミイラ)に会いに博物館へ。
午後8時まで開館(時差の関係,北京との時差は約2時間)と聞いていたのだが,曉が博物館にたどり着いた丁度そのとき,閉館したということだった。
楼蘭の美女は何とも奥ゆかしい。
簡単には会ってくれないようだ(実際は,日曜日のため,閉館時間が早かっただけ。)。
明日,もう一度博物館に行くことにして,ウルムチの大バザールへ。
トルファンのバザールの何倍だろうか,至るところに露店が出て物を売っている。
ウルムチは新疆旅行の起点として多くの観光客が訪れるためか,簡単には値引きをしない強気な店が多かった。バザールの中で,シシカバブとナン(写真③),そして新疆の生ビール(写真④)を楽しむ。新疆の生ビールは,なんとなく発酵途中のビールといったもので,甘いジュースのような飲み物だった。今回の旅行で,とにかく機会があればシシカバブを食べたが,ここで食べたシシカバブが一番美味しかったように思う。

ホテルに戻り,洗面台に水をはって冷していたトルファン産のハミ瓜を食べた。
恐ろしく甘い。
ハミ瓜とはこんなに美味しい果物だったのか,上海の街角で売っているハミ瓜は一体何なのだ!とても同じ瓜とは思えない。
夕食をお腹一杯食べていたにもかかわらず,曉はまるまる半分,ワイフは4分の1をペロリと食べてしまった。
気温が40度にも達する暑い夏,一日の寒暖の差が10度以上という厳しい環境で育った瓜だからこそ,これほどまでに甘くなるのだろう。
あの味は,温度管理されたハウス栽培では絶対出せない。
トルファン産のハミ瓜の甘さ,これはきっと厳しい自然の中で絶えることなく生き抜いてきた種の生命力の味だ。
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『シルクロード旅行(第3章①)トルファン』
2006-08-26 Sat 22:33
午前6時半ごろ,トルファン駅に到着。
列車を降り,親切な韓国人ご夫妻に挨拶をして,駅を出た。そのとき,曉は,ついに外国に来たと思った。
もちろん,中国は,曉にとって,外国なのだが,中国に来て約1年,ワイフが上海に来て約半年。中国の生活習慣にも慣れ,言葉もある程度分かるようになると,なぜか外国という意識が薄くなるように思う。
ところが,トルファン駅を出たとき,観光客を捕まえようとして駅前で待ち受けているタクシーの運転手の顔は日頃見慣れた中国人(正確には漢人)の顔とは明らかに違う。褐色の肌,眉毛が濃く,目鼻が大きい。非常にエキゾチックな顔をしている。敦煌にもウイグル人等の少数民族はいたが,トルファンは敦煌より600キロ以上も西に位置するため,ウイグル人の割合が高い。
昨日,某旅行社トルファン支店に電話をかけ,今日一日のガイドの手配を依頼したとき,その支店の責任者が,「汽車がトルファン駅に着いたら,自分の携帯に電話をかけてくれ,トルファン駅まで迎えに行く。」と言っていたのを思い出し,彼の携帯に電話をかけたが,つながらない。
おっと,そうきたか。
不安がよぎる。
しかし,連絡がつくまで待つのもバカらしい。駅前でタクシーの運転手と値段交渉をして,宿泊先のホテルへ。
ホテルに着いたのは,午前7時半ごろ,時差の関係もあり(中国は全国すべて北京時間を使うが,実際には1時間40分ほど時差がある。),まだ薄暗い。フロントに行くと,曉一行が宿泊する予定の部屋は,まだ前の客が使っている(寝ている)ということで,フロントに荷物を預け,旅行社に連絡をすることにした。

某旅行社トルファン支店に電話しところ,昨日とは違う職員(女性)が電話にでた。
昨日の依頼を説明し,日本語のガイドと車の手配が可能かときくと,可能との返事。車は30分後,ガイドは急なことなので少し遅くなりますが,急ぎホテルに向わせますとテキパキとした対応(昨日の責任者がきちんと手配,少なくとも引継ぎをしていれば,曉一行がガイドを待つこともないのだが,,,),感じは悪くない。
実際,20分ほどで,タクシーの運転手から,ホテルの前で待っているからガイドが着いたら連絡をくれとの電話が入った。
それから,暫らくして,ガイドから電話が入った。

「ウェイ,ニイハオ!ウォ シ ダオヨウ。ニィ ザイ ナール?,,,,」。

おかしい。

普通,日本語のガイドの場合,日本語で話しかけてくる。曉の方から,「もしもし,ガイドさんですか?今何処にいます?」と聞くと,暫らく沈黙。
予感的中。
ホテルにやって来たガイドは英語のガイドだった。
早速,旅行社に電話,すると昨日の男がでた。彼は開き直って,「貴方はガイドとしか言わなかったから,英語のガイドを手配した。」とのたまう。
曉はさすがに頭にきて,
「あんた,昨日日本語のガイド手配する言うたやろ。英語で話されても,細かい説明がわからんやないか。それに,ついさっき,あんたの同僚も日本語ガイド手配すると言うたばかりやないか。」(日本語に訳すると,こんな調子)
と文句をいい,他の旅行社に頼むと言って電話を切った。
すると,ホテルの前まで来ていたガイドから電話がかかってきた。
彼は「貴方は中国語がわかるから,没問題(大丈夫の意)!英語も使えば,何とかなる。」と言う。確かに,今から日本語のガイドを手配するのも無理がある。ワイフが聞き取れなかった中国語は曉が翻訳すれば何とかなるかもしれない。そこで,曉は,そのガイドに,電話で観光案内費用(車のチャーター代及びガイド代)を25%ディスカウントするよう要求。すると,ガイドは曉一行がいるホテルのロビーにやって来て,会社の責任者と直接話をしてくれという。ガイドの携帯電話を使って,例の責任者と話をしたところ,値下げは無理だと言う。
曉は,責任者に,朝トルファンに着いたときに連絡がとれなかったこと,日本語のガイドを手配するといいながら手配できなかったこと,場合によっては曉がガイドの話しているとことを翻訳しなければならないことを並べ立て,減額を要求。結局,20パーセントの減額で一件落着。
ホテルにやって来たガイドは,ウイグル族のA君(推定24歳)。
小柄だが,なかなかの男前。
ウイグル語,中国語,英語を話すことが出来る彼は,現在日本語の勉強中。急いでホテルに駆けつけてきた彼に罪はない。
交渉成立後,彼に「今回の手配の拙さは君の問題ではないよ。旅行会社の問題だよ。」と言うと,彼も少し緊張が解けた様子。気を取り直して,元気良く出発。

彼と一緒に回った観光ルートは,高昌故城→アスターナ古墳群→ベゼクリク千仏洞→火焔山→葡萄を栽培農家で昼食→葡萄溝→蘇公塔→交河故城→カレーズ民族園。簡単に説明すると,高昌故城(写真①)は,麹氏高昌国の王城跡で,かつてこの地を玄奘が訪れ2ヶ月間滞在し,最高の持て成しを受けた場所として有名である。アスターナ古墳群(写真②)は,もともとは高昌国の貴族の墓だったが,後には一般に人(高昌国で不運にも命を落とした隊商等)も埋葬された。現在三つほど墓が公開されており,そのうち一つには,1300年以上前の夫婦のミイラが安置されている。ベゼクリク千仏洞(写真③)は,高昌国の時代からイスラム教がトルファンに広まる14世紀ごろまで造営された石窟である。
火焔山(写真④,最も眺めのいいポイントでは,天候の影響でいい写真がとれなかった。)は,西遊記にも登場する有名な山で,山肌に幾重にもひだが入っていて,また山肌が赤いため,山が燃えているように見える。その名の通りの山である。
葡萄溝は,草木が一本も生えない褐色の山の谷間に幅約2キロ,長さ約6キロにわたって広がる葡萄畑。蘇公塔(写真⑤)は,18世紀後半トルファン郡王スレイマンが父親のために建てたモスクである。レンガ造りの円錐型の塔は44メートル,壁にはレンガを使った幾何学的な模様がある。交河故城(写真⑥)は,二つの河の中州に築かれた城で,かつては車師前国の王都,高昌国時代は交河郡都がおかれ城跡である。カレーズ民俗園は,砂漠に縦に井戸を掘り,地中で井戸と井戸を繋ぐことによって,天山山脈の雪解け水を山の麓からトルファンまで引いたカレーズについての博物館のような施設。実際,天山山脈の雪解け水をこの民俗園まで引いており,その冷たい雪解け水に直接触れることができる。

ガイドA君とのトルファン一日観光は,盛りだくさんだったが,曉がもっとも強い印象を受けたのは,ベゼクリク千仏洞。
正直言って,石窟の保存状態はよくない。
イスラム教がこの地に浸透した14世紀ごろ,石窟内の多くの壁画は破壊された。壁画の中の人の顔が悉くえぐり取られている。また,運良く破壊を逃れた壁画は,イギリスやドイツの探検家によって持ち去られたということである。もともと壁画は芸術として作成されたものではなく,信仰の一環として作成されたものだと思うが,当時のイスラム教徒には,もう少し宗教的寛容さが欲しかった。壁画を持ち去ったイギリス人やドイツ人には,当時の価値観は今とは違うのだろうが,一体何の権利があって持ち出したのかと思う。
作成された当時,この石窟の壁画は,信仰上の祈り,魂を込めて作られた精緻なものであったに違いない。人間は,どうしようもなく愚かで残酷な生き物だ。

高昌故城と交河故城の眺めにも感動した。
かつての建物は破壊され,風化し,岩なのか建物の跡なのか区別が難しいところもある。高昌国時代,この地に壮大な王宮や仏塔があったかと思うと,盛者必衰,寂寥感を感じる。兵どもの夢のあと,と言ったところだろうか。
面白かったのは,昼食。
何が美味しいのか分からないので,A君に注文を任せたところ,とても二人では食べきれないほど注文をする(写真⑦⑧)。
西安,敦煌のガイドと運転手は,昼食は曉一行とは別にとっていたが,A君は曉一行と一緒に坐って注文した料理を食べること食べること。そのうえ,遠慮している運転手(漢族)に対して,「遠慮せず,食べろよ。おいしいぞ。」と勧める始末。
曉は「おいおい,お金を払うのは俺だぞ。何でお前が他人に食事を勧めるんだ。」と心の中でツコッミを入れたが,二人で食べるより四人で食べる方が楽しい。また,A君の人徳か,何故か特に怒る気にもならない。皆でウイグルの民俗舞踊を楽しみながら,美味しい料理に舌鼓を打つ(写真⑨)。ごちそうさま。

トルファン一日観光が終わり,ガイド代等の精算をした後,A君は曉一行をバザール(写真⑩⑪)に連れて行き案内してくれた。今日は葡萄節ということで,バザールは買い物客でごった返していた。シルク,カシミヤなどの布製品,煌びやかな光を放つツボや食器,どれもこれも人の関心をそそるものばかり。
ワイフはカシミヤにいたくご執心,曉は果物市場でラグビーボールよりひと回り大きいハミ瓜,ふた周り大きい西瓜を買った。新疆の8月といえば,やはりハミ瓜をはじめとする果物だ。ホテルに帰って味わうことにしよう。
A君はウイグルの名物料理サモサ(中に少し塩味のきいた羊肉が入ったパイ。羊肉の脂も入れて焼くので非常にジューシー。)を紹介してくれたので,曉一行は早速賞味。旨い。そろそろホテルに帰ろうかという頃,A君は曉にウイグル人がかぶる帽子を買ってプレゼントしてくれた。
正直,とても似合うとは思えない。似合ったとしても,一体何処でかぶるのだろう?とはいえ,プレゼントというは,やはり嬉しいものである。
A君は非常に機転がきく,陽気でとても楽しい男だった。
ホテルのロビーで別れる際,彼に朝値切ったガイド代や車代の半分を特別報酬だよと言って渡した。最初は受取ろうとしなかったが,「これは,君に対するお礼だよ。」と言って手に握らせると,最後はニコッと笑って受取ってくれた。ワイフは最後にA君に中国語で話しかけ,最後に「ラフォメット」とウイグル語でお礼を言っていた。
ちきしょう,やられた。
A君が教えてくれたウイグル語を最後に使おうと考えていたのだが,あちこち見て回っているうちに忘れてしまった。
ホテルに帰って,チェックインしたところ,部屋には冷蔵庫がない。
洗面台に水をためて西瓜を冷して食べた。
甘い。とにかく,甘い。
幼いころ,田舎で食べた西瓜の味がする。
さすがに西瓜とハミ瓜両方を同時に食べることはできない。ハミ瓜は明日のお楽しみ。
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『シルクロード旅行(第2章②)』
2006-08-25 Fri 22:21
朝7時半,ホテルの前でタクシーを拾って,莫高窟へ。
8時過ぎに莫高窟に着く。
莫高窟は,大同の雲崗石窟,洛陽の龍門石窟とともに三大石窟の一つであり,十年以上前から一度行ってみたいと思い続けていた場所。
チケット売り場の近くにある接待所に行き,ガイドの斡旋をお願いするも,ガイドは9時20分ごろに来るので莫高窟の入口のところで待っていてくれと言われ,仕方なく莫高窟の入口へ。
莫高窟は石窟内部での写真撮影が禁止されているので,入口のところでカメラや手荷物を預けて,ガイドが来るのを待つ。

待つこと20分,日本語のガイドがやって来た。
曉一行二人に一人のガイドをつけてもらえるわけもなく,他の3つの団体と一緒に観覧することになった。
うち一つの団体は大半が年配の方で,仏教芸術にかなり関心のある人達だった。莫高窟の石窟の数は492,そのうち拝観できる石窟は40ヶ所,拝観できる石窟の大半は入場料を払えば追加料金を払わなくても拝観できる。しかし,人気の高い石窟となると特別拝観料が必要になる。特別拝観料の金額は,石窟によって異なり,人気の高い石窟になると,特別拝観料は500元(日本円で7500円)にもなるという(昨日のガイドTさん談)。
石窟の中の仏像や壁画は,保存状態が良くないものも少なくない。
時代ごとに修復され,壁画は少なくとも二重塗り,多いものでは七重に塗られている。西夏時代の壁画が剥がれ落ち,中から唐時代の壁画が露出している石窟が数多くあった。
ガイドの話によると,唐代,特に盛唐のころの仏像や壁画は,非常に精緻で,色鮮やかであるが,清代に修復された仏像は皆同じ顔で,頭が大きく,足が短く,バランスがよくないらしい。
確かに,唐代の仏像・壁画と清代に修正されたものの差は,素人目にも明らか。

何故なのだろうか?
曉は疑問に思った。
北京に行けば,清時代の精巧な装飾品を数多くみることができる。清代になって,急速に芸術文化が衰えたというわけでもないだろう。
やはり,陸のシルクロードの衰退にともない,敦煌の中継地としての地位も低下し,仏像等の製作に多額の費用をかけることができず,そのため精巧なものを作ることができなくなったのではないか。

莫高窟の観覧を終え,ホテルに戻り,休憩。
上海の旅行社が依頼した汽車の切符を持った人(G氏,この人は敦煌発の汽車の切符や飛行機のチケットの手配を職業としている。)がホテルのロビーに来たので,会って切符を受取った。
切符を見ると,軟臥(一等寝台)ではなく,硬臥(二等寝台)の切符だった。ここで,軟臥と硬臥の違いを説明すると,軟臥は一つのキャビネットに二段ベッドが二つ,ベッドの幅も少し広く,全体的に清潔。
硬臥は一つのキャビネットに三段ベッドが二つ,別途の幅は狭く,最上段のベッドになった場合には,目が覚めても普通に起き上がることはできない。ベッドと天井との間が60センチほどしかない。
G氏に何故硬臥のチケットなのかと聞くと,旅行社からは特に軟臥とも硬臥とも聞いていなかったようだ。ワイフは日本でも寝台列車に乗ったことはない。初めて寝台列車に乗るワイフに,硬臥とは刺激が強すぎる。
曉はG氏に「旅行社には軟臥の手配をお願いしている。旅行社からは既に軟臥の切符の準備は完了していると聞いている。なんで硬臥なんだ!」と上海の旅行社に電話をかけようとしたところ,G氏は「まてまて,旅行社に電話をかけるな。軟臥と硬臥の差額を払うから,硬臥でいいだろ。二枚とも下の段で,いい切符だぞ。」ときた。
これでは何のために相応の手数料を支払ったのか分からない。
曉は,最悪の場合を考え,G氏に,とりあえず硬臥の切符を渡すこと,その上で軟臥の切符を手配するよう要求した。
G氏は,それなら今から軟臥のチケットを買ってくるから待っていてくれという。
しかし,万一,何らかの事情でG氏と連絡がとれなくなった場合,曉一行はトルファンに移動できなくなる。
そこで,曉は敦煌市内見学を中止し,G氏とともにタクシーに乗って敦煌駅(敦煌市街から120キロ)に向った。
ホテルを出る前に,昨日のガイドのTさんに電話をかけ,当日軟臥の切符を手に入れることができるかどうか確認したところ,難しいのではないかということだった。
親切なTさんは,サンダルに短パン,白いシャツという格好で,ホテルにやって来て,G氏に曉一行をきちんとサポートするようにと言ってくれた(そのせいか,G氏はよく頑張ってくれた。始めから軟臥の切符を準備しておけば,今日頑張る必要はなかったのだが,,,)。

曉一行はG氏と敦煌駅(正確には,柳園駅)を目指し,砂漠の一本道を2時間走り続けた。敦煌駅には午後3時半ごろ到着。
駅の近くの飲食店で,座して待つこと30分。
G氏が戻ってきて,午後6時半には切符を渡す,もうしばらく待ってくれと言う。どうも切符売り場に並んで待っているようだ。しかし,約束の時間にG氏は現れず,遅れること1時間,午後7時半にG氏は約束の軟臥の切符を持って現れた。それまで,曉はジタバタしても仕方がないと本を読んで待っていたが,切符を受取った途端,急に空腹を感じた。午後三時半から何も注文もせず,4時間も坐って待っていた飲食店で,少し腹ごしらえをして駅の待合室に向う。
中国の場合,軟臥と硬臥とでは待合室が違う。軟臥の待合室は,ソファーが置いてあって,人も少なく快適である。しかし,硬臥の場合は,ベンチシートで,人でごった返している。ワイフは中国の寝台列車がどんなものかイメージができないらしく,すこし不安な様子。
しかし,待合室が清潔でゆったりしているのには満足したようだ。

午後9時10分ごろ,ウルムチ往き寝台列車(写真①)に乗り込む。
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軟臥は一般の日本人が考えているより快適である(写真②)。
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同室になった乗客は,上品な韓国人のご夫妻。ワイフが知る限りの韓国語を立て続けに口に出したことが功を奏したのか,そのご夫妻とは一気に和やかな雰囲気となった。
この夫妻は,敦煌,トルファン,ウルムチを3泊4日で回るという。
ご夫妻は中国語が喋れないので,会話は自ずと英語となったが,曉及びワイフは混乱した。ご夫妻の言っていることは分かる。しかし,相手に何かを伝えようとすると,中国語で話しをしてしまい,意識をして英語を話そうとしても,ところどころ中国語が混ざってしまって,分けの分からない言葉になってしまった。
「私達は,,,今,,上海に,,住んでいます。中国語を,,勉強しています,,,,」といった調子で,まどろっこしい限りである。
上海に戻ったら少し英語も勉強することにしよう。

韓国人のご夫妻は,韓国の旅行社の添乗員が配ったメロンやハミ瓜を,量が多いからと言って曉とワイフに分けてくれた。
韓国人のご夫妻,もう二度と会うことはないかもしれませんが,カムサハムニダ。
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『シルクロード旅行(第2章①)』
2006-08-24 Thu 22:12
午前8時ホテルのロビーに行き,昨日電話で予約した某旅行社敦煌支店のガイドを待つも来ない。
約束の午前8時を15分ほど回ったところで,同旅行社敦煌支店に電話。
昨日,電話で応対した職員に「今日の晩,敦煌空港に着くので,明日一日の敦煌観光ための車とガイドの手配をお願いします。」と言っていたにもかかわらず,25日(明日)と思って車とガイドを手配したとの返事。
その支店の責任者は,開き直って,「貴方が25日というから,25日に手配をしました。しかし,何の問題もありません。今から手配します。」という。
さすがに,カチンと来て,「明日の手配をお願いしますとは言ったが,25日などと言った覚えはない。今から手配をするとなれば,おそらく1時間以上客を待たせることになる。貴方達の手違いで,こういう状況になったのだから,ガイド代や車代を少し安くしていただきたい。」と言うと,敦煌支店の責任者は,それは出来ない,少々遅くなっても大丈夫の一点張り。
横で聞いていたワイフはホテルのトイレの臭さに少し苛立っていたこともあってか,私も一言いいたいと旅行社の責任者に対し今回の手配拙さについて文句を言っていた。
上海に来て約5ヶ月,ワイフも逞しくなった。頼もしい限りだが,逞しくなりすぎるのも困る。
結局,その旅行社と押し問答をしても無駄と思い,他の旅行社に電話し,敦煌一日観光の手配をしてもらうことにした。
電話をかけてから20分ほどで,ガイドと運転手が宿泊先のホテルまでやってきた。

彼らと回ったコースは,漢代の長城跡→玉門関→陽関→鳴沙山・月牙泉。
漢代の長城跡は,敦煌市街から車で1時間,砂漠の中の一本道(写真①)をひたすら走ったところにある。
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北京郊外にある明代の長城とちがって,壁の高さは3メートルほど。
長城は玉門関から楼蘭に向って延びている(写真②③)。
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聞くところによると,西域を目指したキャラバン隊は,山のあるところは山の麓を,山のないところは,長城にそって旅をしたということである(写真の長城の壁と柵の間の少し窪んだところが,キャラバン隊が実際に通った真のシルクロード)。
玉門関は,過去何度か場所が変わったということだが,今回訪れた玉門関は漢の武帝時代に築かれたもの。明代以降は海のシルクロードが発達し,そのあおりを受けて陸路は廃れてしまった。
そのため,現在残っているのは,粘土を固めて造った事務所跡(写真④)だけである。
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玉門関は漢の時代,漢帝国の支配領域の西端であり,この関を越えることは西域の異国の地に足を踏み入れることを意味した。風化がすすみ,岩のような事務所跡だけが残る玉門関だが,2100年前は2万人の兵が駐屯し,非常に賑やかで活気のある場所だったという。この地がかつてそんなに繁栄した場所だったとは想像できない。
海のシルクロードの発展とともに,廃れ,消えた玉門関。
無常である。
玉門関の後は,陽関。
陽関は玉門から南に約100キロのところにあり,移動に1時間以上かかるため,途中の農家風レストラン(写真⑤)で昼食をとる。
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注文した料理は,羊肉と野菜,そして餅(日本の餅と違い,ラザニアなどに使うパスタに近い)を少し辛めに炒めたもの(写真⑥)。
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陽関(写真⑦,再現された建物)は,玉門関から100キロ南に下ったところにある関所,玉門関と同じく漢の武帝時代に設けられた関所である。
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今は狼煙台(写真⑧)が一つ残るだけで,かつて200人の兵士が駐屯していたという関所の跡は影も形もなく消えてしまっている。
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ガイドのTさんの話によると,狼煙は,狼の糞を燃やして煙をたてたことから,「狼煙」と言うようになったらしい。狼の糞は,燃やすと真っ直ぐ煙が立ち昇り,狼煙の燃料としては最適だったようだ。
しかし,誰が発見したのだろう?いろんな材料を試みた人がいたのだろうか?
シルクロードのルートを簡単に説明すると,シルクロード(河西回廊,西安から敦煌へのルート)は敦煌で,天山北路,天山南路(西域北道),天山南路(西域南道)に分かれる。
玉門関を抜けると,路は西域北道に続き,陽関を抜けると,路は西域南道へと向かう。曉の今回の旅行は,天山南路ではなく,まず天山北路を辿り,トルファン,ウルムチへ向う。そして,最後は西域北道と西域南道の合流地点であるカシュガルに行く予定である。

抜けるように青い空に,見渡す限りひろがる荒涼とした大地(写真⑨),今回の旅行でもっとも感動した風景の一つである。
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ワイフによると,西安の兵馬俑よりも感動し,涙がこぼれそうだったとのこと。
いずれにしろ,機嫌がよくなって,良かった。助かった。
陽関を見た後は,一度ホテルに戻って休憩し,日が暮れるのを待って,鳴沙山・月牙泉へ(写真⑩⑪)。
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言うまでもなく,鳥取砂丘とはスケールがちがう。
南北20キロ,東西40キロにわたって,砂の山が続く。砂丘の頂に登ってみたが,向こうにはもっと高い砂丘が見える(写真⑫)。
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砂丘の頂から観ると,敦煌の街は緑に溢れ,まさにオアシス。敦煌の気候は厳しい,夏暑いだけでなく,冬は氷点下20度前後にも達する。
曉もさすがに敦煌に住む根性はない。
しかし,歴史的遺産,何処までも続く砂漠,南国のリゾートで優雅にリフレッシュというのも捨て難いが,人類が荒涼とした大自然の中に刻み付けた歴史的遺産は一見の価値ありである。
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『シルクロード旅行(第一章③)西安』
2006-08-23 Wed 22:32
今日はガイドなしの自由行動。
まず城壁の南門に行き,二人乗りの自転車を借りた。西安市街を取り囲む城壁(写真①②③)は,一周約16キロメートル。

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この城壁を自転車で走破しようという試み。
城壁上の路面はフラットで,自転車を漕ぐこと自体は楽なのだが,600年以上前の建造物だけに,路面の至るところに穴凹があって,全て避けて通ることは不可能。
幾度も地面から直撃の衝撃をくらい,完走後お尻が痛んだ。南門からスタートして,西門(写真④),北門,東門を経て,南門に戻るというコース。
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西門はかつてキャラバン隊が西域に向け旅立った場所。
漢の武帝時代の張騫,唐の高宗時代の玄奘がこの西門を抜け西域目指し旅発っていったかと思うと,感慨深い。
中国人の友人のアドバイスで敢行した城壁走破だが,おかげで貴重な経験ができた。100分間自転車を漕ぎ続けたので,いい運動にもなったと思う(フラットな路だったが,結構いい汗をかいた。後部シートのワイフはペダルを漕いでいなかったのかもしれない,,,(疑惑))。
城壁サイクリングの後は,陝西歴史博物館。
展示されている秦代,漢代,そして唐代の遺品はどれもこれも素晴しい,また人が少なく,ゆっくり自分のペースで観て回ることができるのもよい。
あとは,照明やディスプレイ方法を工夫すれば,文句なし。
正直なところ,この点,上海博物館に若干劣るように思う。
歴史博物館の後は,市街地の中心近くにあるムスリム街に。
シシカバブと牛肉チャーハン(写真⑤)をいただく。値段はビール大瓶一本込みで,19元(290円)。

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シカバブは北京語言大学留学時代から好きな食べ物だが,あのスパイシーな味は何とも人の食欲をそそる。二人で6本のシシカバブとトマトの入った少し酸味のきいたスープを食したのだが,足りず,他店でさらにシシカバブ4本とナンを食べることに。漢人は豚肉をよく食べるが,イスラム教徒の多い新疆人は羊肉をよく食べる。
明日,明後日と,西に行けば行くほど,羊肉を食べ
る機会が増えることになる。羊肉は食べても太らないという人もいる。今回の旅行から帰ったとき,曉は見違えるようにスマートになっているかもしれない。自分のことながら楽しみだ。
西安で見たいと考えていた名所旧跡を大体全て見ることができた。
三蔵法師ならぬ,曉律師一行も西安から敦煌に向け,シルクロードを巡る旅に出る。
西安の西の郊外にあるキャラバン隊の石像(写真⑥)を見に行き,気分を高める。
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そして,中国留学の偉大な先輩である阿倍仲麻呂に挨拶をしようと,興慶公園(かつて玄宗皇帝が楊貴妃のために造成した公園)に行ったのだが,公園があまりに広く,また時間があまりなかったことから,阿倍野仲麻呂記念碑を探しあてることができなかった。残念無念。
ホテルにもどり,預けていた荷物を受取り,西安空港へ。
曉一行が乗ったCZ6896は定刻どおりに飛び立ち,2時間ほどで敦煌空港に到着。空港前でタクシーの運転手と交渉して金額を決め,宿泊先のホテルへ。
チェックイン時,カウンターの女の子にインターネットはできるのかと聞くと,できるとの返事。
部屋にたどり着くと,LANやADSL用のケーブルは探しても何処にもない。「ん?ダイヤルアップでインターネットをしろというのか?」,その時嫌な予感が頭をよぎる。
西に行けば行くほど,ネットに充分対応できていないホテルが増えるはず。もちろん泊まるホテルによるが,,,。
今回の旅行は,ガイド代や車のチャーター代は惜しまず,飛行機のチケットとホテルの費用は少し抑えるという方針。

裏目にでたか!

日頃ブロードバンドを使い慣れていると,旅先とはいえ,ダイヤルアップでインターネットをしなければならないというのは正直つらい。
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シルクロード旅行(第一章②)
2006-08-22 Tue 22:40
午前8時ホテルのロビーでツアーガイドのLさんと合流。
旅行社が手配した7人乗りのバンに乗り込み出発。
観光の行程は,昨日中国国際旅行社の人と打ち合わせたとおり,
兵馬俑博物館→秦始皇帝陵→華清池→(昼食)→大雁塔→青龍寺→碑林博物館。
まず,兵馬俑博物館。
兵馬俑博物館は,西安市街の中心部から東に車で50分ほどのところにある。博物館の駐車場に着いたとき,まわりを観たが,あたりに博物館らしきものはない。博物館の敷地があまりに広く,駐車場から博物館まで歩いて30分ほどかかるためだ。駐車場と博物館の入口の間を往復するカートがあると聞き,迷わずカートに乗り,博物館へ。
兵馬俑博物館は,青銅器館,兵馬俑1号坑,同2号坑,同3号坑及び資料館(土産物屋)からなる。青銅器館は,始皇帝陵の西側で発見された4頭立ての馬車(戦車?)2台を展示している。
大きさは実物の2分の1,馬車を覆う天蓋部分が精巧な代物で開閉することができる。秦代のころには既に高度な鋳造技術があったようだ。1号坑はとにかく大きい。まるで飛行機の格納庫のようだ。
兵馬俑はその格納庫のような巨大な建物の中に整然と並んでいる(写真①②)。

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もっとも,1号坑の兵馬俑は完全に発掘修復されたわけではなく,発掘したものの,予算の関係で直ぐに修復作業に着手できないものは再び埋めなおされている。兵馬俑が隊列を組み,東側を向いて整然と並んでいる様子は,ただただ圧巻。
ガイドのLさんの説によると,始皇帝は死後も生前同様の権力を求め,このような壮大な兵馬俑を造ったということだが,すさまじい権力欲だと思う。曉は,正直言って,死後のことにあまり興味はない。もっとも,曉は権力もなければ,名声もなく,そして小金すらもっていない。始皇帝が死後の世界に何を求め,一体何を考えて兵馬俑を造ったのか,分かりようがないのかもしれないが,,,,。
2号坑は,参謀,将軍,騎兵等々,様々な種類の兵馬俑が発見された場所である。広さは1号坑の半分ほど。
発掘作業が充分に進んでおらず,1号坑のように発掘現場に修復した兵馬俑を置いて展示するという段階に達していない。2号坑から発掘された数体の兵馬俑(参謀,将軍,騎兵,弓を射る兵士等)をガラスケースに入れて建物内で展示しているだけである。
もっとも,その展示のおかげで,観光客は兵馬俑を間近で見ることができる。展示を見て先ず気付くことは,兵馬俑の兵士の背が。兵馬俑の平成の最低身長は174センチ,最も背が高いものは196センチ(2号坑の建物内に展示されている将軍)。
一説によると,秦朝時代の中国人男性の平均身長は160センチほどだったということであるので,少なくとも20センチは下駄を履かせていることになる。3号坑は,2号坑よりさらに小さい。
Lさんの話によると,3号坑の兵馬俑は参謀本部を表しているということである。1号坑の兵馬俑のように皆同じ方向を向かず,兵士(正確には参謀)が向かい合っているのは,参謀同士が討議をしている状況を表しているということである(写真③参謀本部)。
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3号坑の後は,資料館。つまり土産物屋。
ここには,兵馬俑を発見した楊さんというお爺さん(兵馬俑博物館の名誉館長,77歳)がいて,兵馬俑のガイドブックを売っている横に座り,お茶を飲んだり,タバコを吸ったりして,のんびりと一日を過ごしている(楊さんの横に張り紙があり,写真撮影禁止との表示。兵馬俑を発見した功績に敬意を表し,見世物にはしないということだろうか)。つまり,楊さんの仕事は売店で本を買ったお客さんにサインをすることなのである。
ガイドのLさんの話によると,楊さんは気の向いたときにしか資料館にやって来ないらしく,兵馬俑博物館に来て,楊さんのサインをもらった人は運がいいということである。
ちなみに,曉は日本語訳が無茶苦茶な兵馬俑博物館ガイドを買い,楊さんにサインしてもらった。兵馬俑を観て,曉が思ったことは,「よくもまあ,こんなものを造ったものだ!」という驚きに尽きる。
一体ごとに,顔のかたち,背の高さ,体つきが違い,また今でこそ兵馬俑は灰色一色だが,埋設当時は彩色され,手相まで表現されていたというのである。一体一体オーダーメイドの兵馬俑が8000体(未発見のものを入れると,一体埋設された兵馬俑が何体になるのか不明),こだわり方が半端ではない。
兵馬俑博物館の次は,秦の始皇帝陵。
一見すると,小高い丘に過ぎず,始皇帝陵を示す表示がなければ墓とは気付かない。始皇帝陵の回りは一面石榴畑で,入場券を買って入って驚いた。
始皇帝陵も石榴畑なのだ。
なだらかな石段を登って始皇帝陵の頂に向う途中,おそらく始皇帝陵で石榴を栽培しているお百姓さんだと思うが,観光客相手に採り立ての石榴を売っていた。
曉が頂から降りてくると,ガイドのLさんが「頂に上ったのですか?頂に登るのは外国の観光客だけですよ。地元の人は頂には登りません。地元の人は,埋葬された始皇帝の上に立つことは,始皇帝に対して失礼だと考えるのです。」と言う。
思わず,「地元の人は,始皇帝の上に立つどころか,畑を耕し,石榴を栽培し,商売をしてるじゃないですか!」と突っ込みを入れそうになったが,まだ観光ガイドは始まったばかり,無用な突っ込みは止めよう,先は長い。
始皇帝陵の後は,華清池。
華清池は西安事件が起こった場所ということでも有名だが,やはり何と言っても玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで有名な場所である(写真④)。
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楊貴妃が使ったお風呂の跡,玄宗皇帝と楊貴妃が混浴したお風呂の跡も残っている。
お風呂の建物の近くには,楊貴妃の立像(写真⑤)があるのだが,おそらくかなり美化されていると思う。
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唐代の美人は,よく言えば「ポッチャリ可愛い」,悪く言えば「肥満」である。時代が変われば,美の基準が変わるということだろうか。
華清池の次は,昼食を挟んで,青龍寺。
ここは弘法大師空海が留学した寺院である。
空海は804年に遣唐使として中国に渡り,806年には帰国した。
空海は,その短い期間に,中国語(師匠と議論するため)とサンスクリット語(インドの経典を読む場合に必要)を習得し,仏法を学び,様々な先進技術をも吸収し,日本にもたらした。曉は,中国に来て,中国語を覚え,中国法を学んでいるが,まだ他のことに取り組む余裕はない(空海と比較すること自体が暴論だが,,,)。
次は,大雁塔(写真⑥⑦⑧)。
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大雁塔は,西遊記の三蔵法師のモデルと言われている高僧玄奘がインド持ち帰った経典を保管するために建造された。現在,大雁塔だけが唐代の建物で,それ以外の建物は後に再建されたものである。
境内では,大雁塔のガイドさんが案内をしてくれたのだが,最後に前官長普慈法師の書を展示している場所に連れて行かれて,「名人の書だから価値がある。貯金よりいい。」「今お金の持ち合わせがないなら,クレジットカードも使える。」と猛烈なアタックを受けたが,懸命にディフェンス。ただ,普慈法師の書と称される作品は,どれも素晴しく,一点4万5000円という値段は安いように思う(本物であれば,,,)。
最後に,碑林博物館。この博物館は,かつての孔子を祭る廟であり,また皇族貴族の子息の大学でもあった場所である。今から約1000年前に重要な石碑を集めて,保管するようになったが,当時印刷技術がそれほど普及しいなかったために,皇族貴族の子息は石碑の刻まれた文章を写して,勉強したということである。
今日は,心ゆくまで中国古代文明を堪能した。夕方,西安名物の餃子を食し,宿泊先のホテルに帰る途中,あるブティックのマネキンを見て驚いた。マネキンが兵馬俑の兵士風なのである(写真⑨)。
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なかには踊っているような兵馬俑風マネキンもいて面白い。西安と言えば,兵馬俑。街中,いたるところで兵馬俑のレプリカがある(マクドナルドの中にも,兵馬俑のレプリカが置いてあった)。この兵馬俑は,西安にとっては,重要な観光資源。今後も,この兵馬俑を街の顔として,アピールしていくのだろう。
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シルクロード旅行(第一章①)
2006-08-21 Mon 22:12
北京空港午前8時30分発,南方航空(CZ)3185便で西安に移動。普段,曉は上海の浦東国際空港をハブ空港とする東方航空を利用することが多く,南方航空を利用したのは今回が初めて。南方航空は広州を拠点とする航空会社だが,北京を拠点としていた北方航空をその傘下に収めたという経緯もあってか,北京空港(国内線)には南方航空専用の搭乗ターミナルがある。南方航空のスタッフの対応は,テキパキとしていて,好印象。東方航空,負けずに頑張れよ。
フライトは1時間40分,午前10時10分西安空港着。西安空港は,北京の首都国際空港や上海の浦東国際空港と比べると,スケールは小さく(大半が国内線の空港であるため,当然ではあるが,,),どことなく閑散としている。その西安空港に降り立って,先ず驚いたことは,その涼しさである。少し肌寒いと言ってもいい。北京もかなり涼しいと思ったが,西安は北京よりさらに涼しい。2,3度,気温が低いのではないかと思う。
空港から宿泊先のホテルまでは,タクシーを利用。運転手は,23歳の陽気な兄ちゃんで,2ヶ月後に結婚するとかで,とにかくご機嫌でよく喋る。「どこに泊まってるんだ?」と聞くので,「○○ホテル」と答えると,「何故そんなホテルに泊まるんだ。かなりオンボロなホテルだぜ。日本人はもっといいホテルに泊まるぞ。○○ホテルとか,,,」と言いたい放題。ワイフには「この運転者は,俺達が今日明日と泊まるホテルがあまりよくないと言っているようだね。」と運転者の話を少し控えめに訳して伝えたにも関わらず,顔がみるみるうちに曇り,曉に対する視線が急に厳しくなった(視線が痛い,,,)。ご機嫌な運転手は,さらに「兵馬俑は絶対見ないといけないぜ。とにかくスゴイから。そうだ,このまま行ったらどうだ?一度市内に行ってから兵馬俑博物館に行くとなると,時間がもったいないぜ。」とまくし立てる。曉が「とりあえずホテルのチェックインが先だ。とにかく宿泊先のホテルに行ってくれ。」と言うと,「荷物だったら,心配しなくていい。車のキーをあんたに渡してもいい。それなら心配ないだろう。」と続く。なかなか商魂逞しい,この手の兄ちゃんは嫌いではないが,とにかく宿泊先の確認が先決,彼の話を断ち切ってホテルに直行。すると,宿泊先のホテルは三星級で,五星級の豪華ホテルとは比べようもないが,部屋は広く,掃除も行き届いていて,かなりいい。タクシーの兄ちゃんが言っていたイメージとは全然違う。しかし,タクシーの兄ちゃんがボロクソに言ってくれたおかげで,ホテルの印象は3割増。ありがとよ,兄ちゃん。
宿泊先のホテルの近くには,平時には時間の告知をし,戦時には司令部となった鐘楼(写真①日中の鐘楼,写真②ライトアップされた鐘楼)や太鼓を鳴らして長安市民に時を知らせた鼓楼(写真③)などの歴史的建造物がある。西安は,鐘楼や鼓楼を中心として,繁華街が東西南北に広がっているのだが,特にこれといって高い建物はない。歴史的な建造物の景観を守ろうとする西安市政府及び市民の意識の現れなのではないかと思う。
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写真①鐘楼(日中)

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写真②鐘楼(夜景)

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写真③鼓楼


午後からは,高僧義浄ゆかりの小雁塔に行き,塔のてっぺんに登る。もともと小雁塔は15階建てだったのだが,15階部分と14階部分は崩れてなくなり,現在14階部分は2メートル四方ほどの天井のない展望台になっている。それにしても,今から1300年以上も前によくもこんな建造物を造ったものだ。今を生きる曉ですら驚きであるのに,当時遣唐使として中国を訪れた日本の留学生達は一体どのような感想を持っただろうか。唐王朝の圧倒的な国力を目の当たりにし,進んだ技術,インド伝来の仏教,そして律令制度に関する知識等,少しでも多く知識技術を祖国に持ち帰ろうと奮闘したに違いない。
小雁塔の後は,中国国際旅行社に行き,明日予定している名所旧跡めぐりのガイドの斡旋を依頼。明日は早朝から,兵馬俑博物館,始皇帝陵,華清池(長恨歌で有名),大雁塔(三蔵法師が持ち帰った経典を保管した場所),青龍寺(空海の留学先),碑林博物館を巡る予定。
旅行社からの帰り,宿泊先のホテルの近くのアーケードに日本でもよく見かける有名ブランドによく似たブランド(写真④)を発見。その店舗の近くには「Anmani」というブランドの店舗もあった。中国政府の知的財産権侵害行為に対する取締りは,最近厳しくなったと聞いているが,知的財産権の保護の意識が市民に浸透するにはもう少し時間がかかりそうだ。頼むぞ,中国。頑張ってもらわないと困るよ。
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写真④西安のアーケード

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シルクロード旅行(序章②)
2006-08-20 Sun 22:34
午前8時ごろ深い眠りから目を覚まし,活動開始。ホテルの朝食はバイキングだが,品数も少なく,美味しくない。お昼はジャージャー麺を食べる予定だったので,軽めに済ませて食堂から退散。
今日は,まず琉璃廠(写真①)に。琉璃廠は書や絵画の店が軒を連ね,北京の文化街とも言うべきエリア。扱われている商品は,書や絵画だけでなく,硯,墨,筆,紙といった書や絵画の道具,書や絵画に関する書籍や資料が豊富に揃っている。琉璃廠の名は,この地にかつて琉璃色の瓦を製造する工房群があったことに由来するが,今は昔の面影はない。曉は昨年10月,学校(北京語言大学)のカリキュラムの一環で初めて琉璃廠を訪れたのだが,その時にこの琉璃廠がいたく気に入った。通りに軒を連ねる店舗はレトロな雰囲気があって風情があるし,骨董品を見るのも楽しい。
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写真①琉璃廠


琉璃廠の後は,天壇の東側,虹橋市場の近くにある老北京炸醤面大王に行き,ジャージャー麺を食した。北京人は水餃子が好きだが,ジャージャー麺も大好きである。かくいう曉もジャージャー麺が大好きで,北京に来るとどうしても食べたくなる。この老北京炸醤面大王は,非常に人気のある店で,お昼時に行くといつも満員。ジャージャー麺を注文すると,店員が麺と具を持ってやって来ては,客の目の前でおもむろに胡瓜,葱,モヤシ,大根,大豆等の具を麺の入ったお碗に放り込む(写真②)。具が外に飛び出そうが,見てくれが悪かろうがお構いなしである。しかし,味は,太めの麺とコッテリとした肉みそがよく合い,なかなかの美味(写真③,肉味噌を麺にからめる前の状態)。
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写真②ジャージャー麺

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写真③ジャージャー麺、肉味噌を麺にからめる前の状態


昼食後は,天壇。天壇は,かつて皇帝が五穀豊穣を祈った場所であるが,天壇の祈年殿(写真④)は曉が最も好きな建物の一つである。色といい,形といい,中国美が最も現れている建造物のように思う。語言大学に留学する前に一度見たことはあったが,留学中は祈年殿の修復工事が行われていたため,に一度も観ることができなかった。こんなに早く修復工事が終わるとは,さすが中国,早い。日本なら,何年,場合によっては十数年もかけて修復工事をするかもしれない。
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写真④天壇(祈年殿)


天壇公園の後は,故宮の北側にある景山公園へ。景山公園は故宮の壮観な眺めを味わう絶好のポイントなのだが,小高い山の上の建築物を改修しているために,最高のビューポイントに立ち入ることはできなかった。祈年殿が見ることができるようになったと思ったら,今度は景山公園のビューポイントの改修である。北京は何とも奥ゆかしい。簡単に全てを見せてはくれない。仕方がない,また来るとしよう。
景山公園では中途半端な景色しか見ることが出来ず,残念な思いをしたが,語言大学時代にお世話になったL老師夫妻との約束の時間が迫っていた。やむなく他のビューポイントを探す努力を放棄し,早々にL老師夫妻宅に。L老師夫妻宅では,餃子を一緒に造り,その際餃子造りの秘訣を教えてもらった。これまでにも,ワイフと二人で餃子を造ることがあったが,L老師夫妻が造る餃子とは似ても似つかぬ味。これでOK,次回から我が家の餃子は格段に美味しくなる。昨晩は水餃子以外にジャージャー麺もご馳走になった(写真⑤,特製水餃子とジャージャー麺)。麺も食べる前にL老師のご主人が打ったもので,具は胡瓜のみとシンプルだが,味は老北京炸醤面大王を超えていた。たくさんいただきました。ご馳走さまでした。
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写真⑤特製水餃子とジャージャー麺

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シルクロード旅行(序章①)
2006-08-19 Sat 22:16
華東政法学院が夏休みであることを利用して,思い切ってシルクロードを旅行することにした。今日上海を旅立ち,30日に上海に戻るという12日間の長期旅行である。司法試験に合格した後,友人のK君(現在アメリカ留学中)と二週間をかけアメリカ横断旅行を敢行したことがあったが,それ以来の長期旅行となる。曉は幼いころからシルクロードに興味を持ち,シルクロード関係のスペシャル番組を観ては,いつの日かシルクロード旅行をしたいと考えていた。その夢がようやく叶う。先ず北京に飛んで2泊,その後西安に移動し,古の都長安からシルクロードをたどる。最初は,汽車を利用して,広大な中国大陸を肌で感じながら,中国の西の果てカシュガルを目指そうと考えていたが,同行する曉のワイフ(以下「ワイフ」)の体力のことを考えて,今回の旅行は飛行機をできるだけ利用することにした。
昨晩まとめた荷物を持って,いざ出発。今回は,タクシーで龍陽駅まで行き,そこからリニアモーターカー(写真①,龍陽駅から空港まで7分)に乗って浦東空港へ移動。上海市内が渋滞していなければ,我が家から最短50分で空港にたどり着くことができる。今回も,1時間ほどで空港に到着。順調である。
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写真①リニアモーターカー


しかしである。搭乗手続きをすませて,軽く昼食をとり,搭乗ゲートに行ったところ,搭乗ゲートのお姉さんが,飛行機の調整が遅れており,飛行機への搭乗はかなり遅くなると仰る。詳しい理由は聞いても分からず,出発が何時になるのかも分からない。気分よく家を出たのだが,空港でいきなり蹴躓いてしまった。
結局,曉を乗せたMU272は2時間遅れで浦東空港を離陸し,北京には午後6時過ぎに到着した。当初の予定では,午後4時に北京空港に到着し,宿泊先のホテルでチェックインを済ませてから,曉が敬愛する律師の一人であるHP先生とその愛息T君と午後7時に大董kao(火偏に「考」)鴨店(写真②,大使館街の近くにあり,代々の日本の大使を含め,著名人がよく来る店である。最近特に人気があり,曉が駆けつけたときも,店の前にはすごい行列ができていた。)で名物の北京ダックを食する予定だったのだが,飛行機が2時間も遅れたために,北京空港に着くなりHP先生が手配した車に飛び乗り,大董kao鴨店に直行するはめになった。
北京には,他に「全衆徳」「鴨王」という名店があるが,曉はこの大董kao鴨店のペキンダッグが一番美味しいのではないかと思う。比較的アッサリした味(日本人向きだと思う)で,店員が伝統的な食べ方を含め三種類の食べ方を教えてくれるのも嬉しい。今日は,この大董kao鴨店に,HP先生親子だけでなく,HP先生の友人のLH先生,WB先生,そしてWB先生の奥様と息子さんのS君も来てくれた。ワイフは上海に来て未だ4ヶ月,ようやく耳が慣れてきたところである。これは大変なことになったなあと思ったのだが,LH先生,WB先生そしてWB先生の奥さんも日本に留学した経験があり,皆日本語を流暢に話す。そして,WB先生の奥さんはワイフに日本語で話しかけ,ワイフが習いたての中国語で話をしても,嫌な顔ひとつせず耳を傾けて下さった。非常感謝!である。おかげで,ワイフも名物のペキンダッグを味わいながら,機嫌よく会食を楽しんだようである。
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写真②大董カオ鴨店

HP先生達との会食が終わり,タクシーに乗って宿泊先のホテルに向う途中,天安門(写真③,天安門の対面が天安門広場であり,天安門の向こうは広大な故宮である。)の前を通りかかった。天安門を含め,天安門広場を囲む四つの建造物はすべてライトアップされて,壮麗である。天安門を見て,北京にまたやって来たなあ,,,と少し感慨に耽ってしまった。なんと言っても北京は曉が中国生活のスタートをきった思い出の地である。
シルクロード旅行は未だ序章,おそらくこの先,想定外のことが度々起こるに違いない。どんなことが起こるのやら,正直不安もあるが,とにかく中国を堪能させていただきましょう。
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写真③天安門


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『謝謝,JOINHAND!』
2006-08-17 Thu 14:53
夏季休暇を利用して、7月4日から週3日、上海市慧元律師事務所(ジョイハンド律師事務所)で研修をさせていただいたが、今日でその研修も終わり。
研修は今日が最後ということで、お昼はジョイハンドの王律師、毛律師、そしてスタッフ一同と近くの鉄板焼(日本料理)の店に行き、ご馳走になってしまった。この一ヶ月余りの間、ある時は契約書や報告書等の翻訳、ある時はクライアントの相談に一緒に入って議論と、非常によくしていただいた。中国人律師の業務の一端を垣間見ることが出来たように思う。

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張老師,王老師(写真左),毛老師(写真右),斉藤先生,律師補助的呂先生,謝謝!

中国人律師の業務の手法は、日本の弁護士と基本的に違いはない。
当然まったく同じというわけではなく、研修中「そう考えるのかぁ、、」と驚くこともあった。
しかし、それは日中の価値観の違いや置かれた環境の違いであって、中国人律師が不合理なことをしているためではない(ジョイハンドでの研修を通じての印象。他の事務所の律師の手法は知らない。)。
また、中国人律師の業務領域は、日本の弁護士より広いように思う。
つまり、業務範囲は、契約書の作成や訴訟といった一般的な法律業務から、税務会計問題、ひいては投資や取引の市場調査にも及ぶ
。曉の印象としては、中国の律師とは、日本の弁護士、行政書士及びコンサルタントの性格を兼ね備えた職業ではないかと思う。

弁護士(律師)も環境が変われば、クライアントに提供するサービスも変わる。日本の弁護士も、従来の業務+αを求められる時代がすぐそこまで来ているのかもしれない。

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昼間の上海

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夜の上海
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『中国留学案内②』
2006-08-16 Wed 13:55
曉は,いずれは上海で法律の勉強をしたいと考えていたが,まずは北京で中国語を勉強することにした。
その理由は二つ,普通話(中国の共通語)の勉強には,やはり北京が一番と考えていた(中国各地には○○話という言葉があり,南方の中国人が話す普通話はなまりが酷いと聞かされていた。現実には,南方出身の人でも,きれいな普通話で話す人は幾らでもいる。)
そして,どうせ中国に留学するなら,北京と上海,中国を代表するこの二大都市で生活してみたいと考えたためである。

曉が中国語を習得するために選んだ大学は,北京語言大学。
学生の70パーセントが留学生という,外国人に中国語を教えるために設立された大学である。留学生が多いだけに,様々なクラスがあり,1ヶ月,3ヶ月の短期留学コースから4年にわたる長期留学コース,一日4時間の普通クラスもあれば,一日6時間の速成クラスもあった。
曉が選んだのは,半年(9月15日から1月17日まで,実質4ヶ月)の速成コース。毎朝8時から2時間口語(会話)の授業,残りの4時間は主にリーディング(週2回,各2時間ヒアリングの授業もあった)の授業を受けた。
教師のレベルは高く,特に口語の先生の授業はいつもハイテンションで楽しかった。身銭を切って安くない授業料(確か,2300ドル)を支払った(自分で行きたいと言った以上,当然ではあるが,,,)という想いが強かったために,クソ真面目に通学し,卒業式のときには,優秀学生及び皆勤賞という二つの賞をもらってしまった。
しかし,今にして思えば,午後は学校をサボってでも,中国人の学生とマンツーマンで勉強した方がよかったのではないかと思う。

中国に語学留学する人は年々増加し,特に韓国人留学生は圧倒的に多い。
ひとクラス,20人前後となると,どうしても発言する機会は減り,会話の練習にならない。
優秀な家庭教師を確保できるのであれば,家庭教師とのマンツーマンレッスンを増やした方が中国語の上達は早いのではないかと思う。
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『中国留学案内①』
2006-08-15 Tue 10:42
先日,友人から中国留学についての質問があった。
このブログを読んでくれている人の中にも,中国留学を考えている人がいるかもしれない。
そこで,今日は中国留学についてのお話。

中国留学の目的は,当然人それぞれ違う。
曉の場合は,中国で法律や経済を勉強したい考えたわけだが,人によっては中国の文化や歴史を学びたい,二胡などの伝統的な楽器を習いたい,中国医学を学びたいという人もいることと思う。
しかし,どのような目的を持つにしろ,中国に留学する以上,まずは中国語をマスターしなければならない。

曉は,留学前,仕事の合間に語学学校に通ったが,高い月謝の割には,中国語のレベルは向上しなかったように思う。
語学のセンスがなかったのか,やはり働きながら一から中国語を勉強することに限界があったのか,理由はよくわからないが,昨年9月に北京に留学したばかりのころは,中国人の友人の助けがなければ,自分の宿舎にたどり着くこともできなかったと思う。
そして,クラス分けの面接のときに,予め想定していたことを聞かれたので,質問にスラスラ答えてしまい,中級のクラスに放り込まれてしまった。
正直言うと,最初の1週間は老師(教師の意)の言っていることなど50%ぐらいしか分からず,往生した。韓国人やインドネシア人とコミュニケーションをとるためには,中国語を使うしかなく,また中国人の友人と一緒に勉強するなかで,徐々に耳がなれ,簡単な日常会話には困らなくなった。
やはり必要に迫られると人間努力するものである。

しかし,だからといって,中国語の知識ゼロの状態で,中国に留学するのもどうかかと思う。
「アー」「イー」「ウー」といった基本的な発音から練習することになり,また初級クラスは授業も老師が英語プラス中国語でゆっくり説明するので,授業の進度はどうしても遅い。
そして,上達のスピードもどうしても遅くなる。
ひと月ほどみっちり基本を学んで,その後はさっさと中国に行って,中国語漬けの生活を送るのがベストではないだろうか。
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『中国の空港では地平線が見える』
2006-08-14 Mon 11:38
中国の空港はとにかく大きい。
北京の首都国際空港も関空の一体何倍あるんだろうかという規模だが、上海の浦東国際空港も大きい。
現空港だけでもたいがい大きいのだが、現在第二ターミナル(現在のターミナルと左右対称、ほとんど同じ形をしている。)を建設中であり、空港の規模も倍近くに拡大されることになる。浦東国際空港に降り立つと、周囲に山がないこともあって、見渡すかぎり空港といった感じである。上海周辺には巨大な港湾施設もあり、上海は間違いなくアジアの物流の中心にもなりつつある。

浦東国際空港にあって、他の空港にない特色は、何と言ってもリニアーモーターカーである。
リニアモーターカーを利用すれば、7分ほどで市中心部近くまで行くことができる。片道50元(750円)で、途中430キロの速度を体験することができる。
日本では、万博会場にでも行かなければ、リニアモーターカーに乗ることなどできないが、なんと上海では実生活の中でリニアモーターカーに乗ることができる(ただ、リニアモーターカーに乗るのは、外国人か、上海に観光にやってきた中国人ぐらいである。50元はやはり高い。)
知人友人が上海に来たときの曉のアテンドの定番はリニアモーターカーである。
何度も乗っているとさすがに飽きて、感動も薄れるが、初めて乗った人には、老若男女を問わず喜んでもらえる。

一度お試しあれ(旅行社にリニアモーターカーの切符等の手配を頼むと、ガイドがついて5,000円ほど費用がかかる場合がある。龍陽駅(リニアの終着駅)にはタクシー乗り場があり、英語、場合によっては筆談でコミュニケーションが取れるので、特にガイドは必要ないように思う。現地の感覚からすれば、リニアモーターカーに乗るだけで、5,000円というのは、あまりに高い。)。
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『上海の交差点はスリリングである』
2006-08-11 Fri 16:49
2年前に初めて上海を訪れたとき、曉は車に撥ねられそうになった。

つまり、こういうことである。
浦東の陸家嘴(高層ビルが林立する浦東新区の中心的なエリア)のある交差点を渡ろうとしたところ、左方向から走ってきた車(中国では、自動車は右側通行。日本と逆。)が進行方向の信号が赤であるにもかかわらず、止まらず、右折したのである。
その時、曉は、間一髪、身をかわして病院送りになることを避けることができたが、もう少しで撥ねられところであった。
中国では、進行方向の信号が赤でも、右折はOKなのである。
所変われば品代わり、国が変われば交通ルールも変わる。
中国にお越しのときには、この交通ルールの違いにぜひとも注意していただきたいものである。

さらに、中国ならではの面白いものに、自転車専用道路がある。
車道と歩道の間に幅2.5メートルほどの路があり、その路はスクーター、電機スクーター、自転車の専用である。
この自転車専用道路、スピードの異なる三種類の二輪車が走るので、自転車に乗る場合は四方八方を絶えず注意する必要がある。
スクーターは、そのエンジン音によって、接近を知ることができるのでいいのだが、電機スクーターはいけない。日本ではおよそ見かけたことのないこの電機スクーター(外観はスリムなスクーターといったところ)は、ほとんど音がしない。
排気ガスを出ださないため環境には優しいのかもしれないが、自転車に乗る者にとっては恐怖である。音も無く忍び寄り、はっと気づいたときには左斜め後ろを走っていたりする。

上海に来たばかりのころは、自転車で通学していたが、何度かヒヤッとして以来、今はもっぱらバスを利用している。
外国で生活する以上、ある程度の我慢は仕方がない。
何と言っても、命あっての物種である。

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『中国の交通事情』
2006-08-10 Thu 15:55
上海は東京と肩を並べる大都市であるが、現時点で地下鉄の路線は4本しかない(うち、三号線は地下鉄というよりは、高架鉄道だが、、)。
路線こそ少ないものの、3、4分間隔で走っており、当然ながら渋滞もない。料金も比較的安く、3駅ほどの距離なら3元(45円)、5駅ほどの距離なら4元(60円)で乗ることができる。

地下鉄以外で、上海人が利用する交通手段は、バスとタクシーである。

まず、バス。
上海は、地下鉄の路線が少ないこともあって、バスが発達している。
路線が網の目のように張りめぐらされていて、バスに乗れば、行きたいところには大体行ける。
バスには、エアコンのない1元(15円)バスとエアコン付きの2元(30円)バスがあるのだが、夏の暑い日に1元バスに乗り合わせると大変な目にあう。
どんなに人が乗っていても、バス停にバスが停まるたびに、新たな乗客が猛然と乗り込んでくる。
中国人は「次のバスをまとうか。」などと簡単には諦めない。
バスの中の温度は上がり、まるで蒸し風呂のようになる。
上海でバスに乗る場合には、エアコン付きのバスかどうかの確認は鉄則である。

次に、タクシー。
初乗り料金は11元(160円、ついこの前まで10元)、ちょっとした移動であれば20元(300円)で事足りる。
タクシーは、「○○路、××路」と交差する二つの通りの名を運転手に告げれば、目的地まできちんと連れて行ってくれるのでとても便利なのだが、雨の日にタクシーを当てにすると痛い目にあう(約束の会合に遅れる等等、被害は甚大である)。
皆一斉にタクシーに乗るため、全然拾うことができない。ひどいときには、雨の中、40分近くも道端に立ち続けなければならないこともある。
かく言う曉は、雨の日のタクシー探しを得意としている。
人をして、タクシーキャッチャーと言わしめるほどである。
コツは、簡単、客を降ろすために停車しそうなタクシーを見つけたら、その停車しそうな場所に向かってダッシュするだけである。
日ごろ温厚(自称)な曉も、雨の日だけは、戦闘能力全開である。ひとたびタクシーを取り逃すと、ずぶ濡れになって次の僥倖をまたねばならず、大変な目にあう。

2010年には、上海万博が開催される。
そのときまでには、地下鉄の路線も増え、上海の交通事情はかなり改善されているはずである。
きっと、その時、曉は、かつて雨の日にタクシーを捕まえるために、血相を変えてタッシュしていたことを懐かしく思い出すことだろう。
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『中国の食文化③』
2006-08-09 Wed 16:54
インターネットで、上海蟹(正確には、シナモズクガニ)がヨーロッパで繁殖し、生態系への影響が懸念されているというニュースを目にした。
すでに漁業に深刻な影響が出始めているということであるから、シナモズガニはヨーロッパでは完全な悪役である。

曉が上海蟹を始めて食べたのは、一年半ほど前のことである。
それまで、蟹といえばズワイガニと、こよなくズワイガニを愛していたのだが、上海蟹を食べて驚いた。蟹ミソがネットリと濃厚で美味いのである。
上海蟹はそれほど大きなカニではない。
足が細く、その身を食べるのに苦労する。身の味自体は美味しいのだが、ズワイガニのような感動はない。
しかしである。
ミソは少し赤みがかった黄色で、コッテリとした旨みがある。
ズワイガニをこよなく愛する曉ではあるが、ミソに関しては、上海蟹に軍配をあげざるをえない。

一般に、旧暦の9月は上海蟹の雌が、10月になると雄が美味しくなると言われている。
暑い夏が終われば、上海蟹の季節がやってくる。シーズン到来が待ち遠しい。

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『中国人の距離感』
2006-08-08 Tue 14:24
北京に留学する前、所長(明石法彦弁護士)の知人の会社で働いていた中国人女性(以下、「M先生」)に2週間に1回ほどの割合で中国語を教えてもらった。
そのとき、初めて、中国人と日本人とでは、人として安心を感じる距離感が違うということに気付いた。

つまり、こういうことである。
初めて家庭教師をしてもらったとき、曉はそのチャーミングなM先生の対面に座ったのだが、M先生は不自然だと言う。
そして、曉の右隣に座ったのだが、あまりの至近距離に、曉は思わず20センチほど左側に逃げてしまった(意気地なしと笑っていただいて結構)。
あのときのフィーリングは,恥ずかしいとか照れるとかいうものではなく、いきなり懐の中に飛び込まれたことによって感じるプレッシャーである。
剣道や空手の経験のある人には分かっていただけると思う。
上海で知り合った日本に留学経験もある律師のO先生に、この話をすると、O先生曰く、
「日本に留学したとき、日本の女性は皆冷たいと感じた。なんとなく自分と距離をとっているように感じた。」とのこと。
今後中国旅行或いは留学を計画している男性諸君、美しい中国人女性が隣に座ったとしても、まずは冷静に考え、変な誤解をしないよう注意していただきたい。

そういえば、こういうこともあった。
今年1月、2月以降の住まいを確保するために、2泊3日の予定で北京から上海に行ったときのことである。
ある中国系の不動産業者が、
「すぐ近くに、いい物件があります。一緒に見に行きましょう。」
というので、一緒に歩いて物件を見に行った。
歩くこと20分、ようやく目的の物件にたどり着いた。
「ここは駅も近いですし、家賃もお安いですよ。」

その時,曉は心の中で呟いた。

「確かに物件は悪くない、広いし、家賃も比較的安い。しかし、駅から近いということはない。少なくとも徒歩で40分はかかるだろうが,,,」と。

しかし,あの担当の女性はセールストークで「駅近」と言ったのではないと思う。
本当に近いと、少なくとも遠くはないと考えていたと思う。
何かと便利な生活になれた日本人、相当足腰が弱っているのだろうか。
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『中国の食文化②』
2006-08-07 Mon 13:19
上海の朝は忙しい。
家でゆっくり朝ご飯を食べることができなかった人などは、バスの中で包子(日本の肉まん)をモグモグと食べていたりする。
この包子、実はなかなかの優れものである。
日本で肉まんというと、その名のとおり、中に豚肉の餡が入っている。
しかし、中国の包子は、豚肉が入っているものもあるが、野菜が入っているものもあって、種類が豊富である。
このため、豆乳を飲んで、野菜の餡入りの包子を食べれば、ものの2,3分でバランスのとれた朝食を済ませることができる。

ここで、少し北京の朝食のことも紹介したい。
北方では、米=主食ではないのだが、朝食にお粥を食べることが多い。
学生食堂の定番の朝食は、お粥に油条(フワッとした揚げパンのようなもの。豆乳と一緒に食べると絶妙に美味しい。)、煮卵に豆乳である。
また、お粥専門店も彼方此方にあり、お米(中国語では、大米)のお粥、粟(中国語では、小米)のお粥、トウモロコシ(中国語では、玉米)のお粥、そして様々な具の入ったお粥を楽しむことができる。
中国に来るまで、曉はお粥とは風邪を引いたときに食べるものだと思っていた。
中国では、お粥とは、体調の良し悪しに関係なく楽しむ食べ物なのである。
しっかりした味付けの料理を好む一方、お粥のような淡い味の食べ物も好む。
中国人は、食についてもメリハリのきいた人達である。
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『中国の食文化①』
2006-08-04 Fri 09:54
中国は広大な国土を有するために、地域ごとに独自の食文化がある。
北京の料理は、日本人には少し脂っこく味も濃い。四川の料理は、口が少し痺れるような辛さ(麻味と言う)がある。上海の料理は、比較的あっさりしていて、少し甘い。
中国の食文化が豊かなのは、このように各地域ごとに特有の食文化があることと関係があるように思う。

今日は主食の話をしたい。
日本では、主食とは「米」のことである。パン食も浸透してきているが、やはり「米」=主食である。この関係は、お隣の韓国でも同じである。
しかしである。
中国の北方地域では、「米」=主食ではない。米は、主食の中の一つでしかない。
例えば、北京では、饅頭(肉まんの中身がないもの)、包子(肉まん)、餅(日本の餅ではない。簡単に言えば、具の少ないお好み焼きといったところか。)、麺といったものも主食となる。
さらにいえば、数ある主食の中でも、米の占める位置はそれほど高くはない。語言大学在学中に大変お世話になったL先生ご夫妻などは、ほとんど米のご飯を食べていなかったように思う。

ところがである。
上海にくると、これが一変する。
上海では、主食は、やはり「米」である。学生食堂や社員食堂などに行くと、かならず金属の容器に盛られた白いご飯が出てくるのである。湿潤な南方に比べ、大気が乾燥し気候の厳しい北方、そうした気候風土の違いが、北方と南方の食文化の違いを生み出したのだと思うが、北京留学時代、曉はこの食文化の違いを堪能した。饅頭や餅をほお張りながら、少しコッテリした中華料理を食する。これはこれで、なかなか口に合う。

もし北京(或いは北方の都市)に旅行に行かれるのであれば、是非普通の飯屋に行って、一度この食べ方を試していただきたいものである。
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『中国の医療事情』
2006-08-03 Thu 14:08
中国に来て10ヶ月,その間ホームシックで悩むことも,体調を崩すこともなく,順調に過ごしてきたが,この度初めて曉は中国の病院の門を叩くこととなった。
一週間前から鼻水が出て,
「鼻炎かな?」
と特に気にすることもなく過ごしていたところ,日に日に悪化し,まともに呼吸ができないほど鼻水がでるようになってしまった。
家内が病院に行け行けとあまりにうるさいので,病院嫌いの暁も
「何か事故があったときに,すぐに病院に行けないようでは困るな。下見を兼ねて,ちょっと行ってみるか。」
などと妙な口実をブツブツ呟きながら,病院へ。

中国に来る前に海外旅行者保険(一種の医療保険)に加入していたので,保険会社が提携している病院で,住まいに最も近い上海市静安区中心医院国際医療中心に行くことにした。
この病院には,外国人専門のセクションがあり,日本人スタッフ(彼は神戸市西区出身で,曉が神戸に住んでいたことを知り,親しげに話かけてくれた。)もいる。
診察の仕方は日本と同じ,病状を聞き,喉を見て,胸と背中に聴診器をあてる,そして仰向けに寝かせてお腹のあちこちを押し,その都度「痛くないか?」と聞くというオーソドックスなもの。
生まれて初めて外国の病院に行ったのだが,中国独自の診察診療方法があるものとかってに思い込んでいたために,安心半分,落胆半分。

ドクターが,念のために血液検査もしましょうというので,血液検査をしたところ,20分ほどで血液検査の結果が判明。その結果を見て医者が言うには,何かよからぬ菌が空気を通じて体に入ってしまっているとのこと。抗生物質と風邪薬(漢方薬と西洋薬の二種類)を処方してもらい,家に帰って,ドクターの言うとおりに薬を飲んだ。

すると,それまでは鼻水がでるだけだったのに,急に発熱し,一晩寝たら,熱も下がり鼻水も止まった。このような病状は,これまでに一度も経験がない。
抗生物質が体内に入ってきたときに,体に巣くっていた病原菌が敢然と戦い抵抗したために発熱という症状がでたのではないかなどと勝手に解釈している。
さすが中国,病原菌もなかなか手ごわい。
中国の病院も,きちんと選べば何の問題もないこともわかった。
また,海外旅行者保険と提携している病院に行けば,医療費を一切払わなくてもよい。保険加入時に説明書を読んで知ってはいたが,実際経験すると非常に便利。

そうか,そうだったのか!
高い保険料を払って海外旅行者保険に入っておきながら,病院が嫌いだと市販の薬を買って飲むなど愚の骨頂なのだ。
これからは,少しでも体に違和感を感じた時には,素直に病院に行くことにしよう。
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『中国人はバイリンガル』
2006-08-02 Wed 14:28
中国人は語学のセンスがあるように思う。
外国に留学した経験がなくても、英語や日本語を流暢に話す人が結構いる。
ある人曰く、日本語は中国語などのほかの言語に比べ、母音や子音の種類が少ないために、日本人は発音やヒアリングで苦労するとのこと。
確かに、「R」と「L」の発音など、日本人が最も苦手とするものだと思う。こうした母国語の語学的特徴からみると、日本人よりも中国人の方が外国語を習得しやすいと言えるかもしれない。
しかし、母国語の言語的特徴による影響はそれほど大きいとは思えない。
むしろ、中国には、各地域ごとに○○話という言語があるということが大きな原因であるように思えてならない。

例えば、上海。
上海には、上海話という言葉が存在する。書けば普通の中国語なのだが、話すと普通話(中国の共通語)とは全く別ものである。一つ一つの単語の発音が違うだけでなく、声調も異なる(中国語の普通話には四種類の声調があり、「アー」と発音するにしても、フラットな調子、上がり調子、下がり調子、一度下がってから上がるという四種類の声調があるのだが、上海話には五種類ある。聞くところによると、広東話には七種類の声調があるということである。)。
北京に住んでいたころ、中国人の友人が「上海や広州に行ったら、周りの人が何を言っているのか全然分からなかった。」とよく言っていたが、今年1月部屋探しのために上海にやってきたときに、彼の言っていたことを実際に体験することになった。
浦東空港に着いて、宿泊先のホテルに行こうとタクシーに乗ったところ、タクシーの運転手の言っていることが全然分からない。
運転手も途中で客が中国語を習いたての外国人だということが分かったようで、普通話に切り替えて話をするようになったので、事なきを得たが、最初は「ここは中国か?東南アジアのどこかの国に来てしまったのではないか?」などと思ってしまった。
日本にも、方言は存在する。
しかし、関西人が東京に行って関西弁を喋っても意思疎通上何も問題はない(地域によっては、全くわからないという方言もあるが,,,)。
中国ではそうないかない。上海人が北京に行って、上海話を喋ったら、上海出身の人に出会わない限り、宿泊先のホテルにもたどり着けないのではないだろうか。

暫く前に、上海の大学で法律を教えている人と会食する機会があった。その人は南京出身ということだったので、「南京は上海に近いですから、上海話は最初から問題ないですよね。」と聞いたところ、「今は分かりますが、上海に来たころは、上海人の話していることが全然分かりませんでした。」とのこと。
上海から南京まで、汽車に乗って4時間ほど、それほど遠いわけではない。しかし、上海人と南京人の話す言葉は互いに何を言っているか分からないほどに違う。

このように、中国では、地域間の言語の違いが大きいために、異なる地域出身の人(外地人と言う)と話をするときは、普通話を使って話をする。外国人の目から見ると、あたかも二ヶ国語を自由に操っているように見える。

ここで曉の結論、中国人はバイリンガルである。
もし、英語或いは日本語を話すことができるのであれば、その中国人はトゥリリンガルである。
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『中国のお年寄りはパワフルである』
2006-08-01 Tue 10:00
友人が中国に遊びにきたときには、早起きして公園に行くことを必ず勧めている。

それは、何故か?

早朝の公園こそ、中国らしさが溢れている場所であり、そして中国人のパワーを体感できる場所だからである。
昨年9月北京に留学したとき、健康のためにと太極拳のレッスンに参加することにした。レッスンは毎朝午前6時45分から始まるのだが、そのときには既に大勢のお年寄りが学校のキャンパスに集まり、各自太極拳、太極剣(剣を使う太極拳)、太極扇(大きな扇を使う太極拳)などの練習をしていた。北京の秋は短く11月になると朝の気温が氷点下になることも珍しくないのだが、この太極拳の練習は続く。
学校の行事で北海公園(故宮の北西にある大きな公園)に行ったときは、もっと驚いた。
公園内のいたるところで、大勢のお年寄りが、歌に、踊りに、太極拳にといきいきと活動しているのだ。なかには100人以上の人が輪になって歌い、輪の中で2、3人の年配の女性が踊るといったものもあり、その音量、活気にその場に暫く釘付けになってしまった。
こうした活き活きとしたお年寄りは、北京にかぎるものではない。
上海の魯迅公園でも、お年寄りが朝から歌に、踊りに、二胡(中国の弦楽器)の演奏、太極拳、そして京劇を興じている。
余生を謳歌しているお年寄りの姿は、見ていてこちらが楽しくなる。

日本はどうだろう?
退職したあと、様々な活動に勤しむ人もいると思うが、一般的には家にこもる人が多いのではないだろうか。

曉の老後はどうなるのか?
今はとても自分の老後のことを考える余裕などないが、日中の交流にかかわる仕事にいつまでも関わっていたいものである。
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