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シルクロード旅行(第一章②)
2006-08-22 Tue 22:40
午前8時ホテルのロビーでツアーガイドのLさんと合流。
旅行社が手配した7人乗りのバンに乗り込み出発。
観光の行程は,昨日中国国際旅行社の人と打ち合わせたとおり,
兵馬俑博物館→秦始皇帝陵→華清池→(昼食)→大雁塔→青龍寺→碑林博物館。
まず,兵馬俑博物館。
兵馬俑博物館は,西安市街の中心部から東に車で50分ほどのところにある。博物館の駐車場に着いたとき,まわりを観たが,あたりに博物館らしきものはない。博物館の敷地があまりに広く,駐車場から博物館まで歩いて30分ほどかかるためだ。駐車場と博物館の入口の間を往復するカートがあると聞き,迷わずカートに乗り,博物館へ。
兵馬俑博物館は,青銅器館,兵馬俑1号坑,同2号坑,同3号坑及び資料館(土産物屋)からなる。青銅器館は,始皇帝陵の西側で発見された4頭立ての馬車(戦車?)2台を展示している。
大きさは実物の2分の1,馬車を覆う天蓋部分が精巧な代物で開閉することができる。秦代のころには既に高度な鋳造技術があったようだ。1号坑はとにかく大きい。まるで飛行機の格納庫のようだ。
兵馬俑はその格納庫のような巨大な建物の中に整然と並んでいる(写真①②)。

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もっとも,1号坑の兵馬俑は完全に発掘修復されたわけではなく,発掘したものの,予算の関係で直ぐに修復作業に着手できないものは再び埋めなおされている。兵馬俑が隊列を組み,東側を向いて整然と並んでいる様子は,ただただ圧巻。
ガイドのLさんの説によると,始皇帝は死後も生前同様の権力を求め,このような壮大な兵馬俑を造ったということだが,すさまじい権力欲だと思う。曉は,正直言って,死後のことにあまり興味はない。もっとも,曉は権力もなければ,名声もなく,そして小金すらもっていない。始皇帝が死後の世界に何を求め,一体何を考えて兵馬俑を造ったのか,分かりようがないのかもしれないが,,,,。
2号坑は,参謀,将軍,騎兵等々,様々な種類の兵馬俑が発見された場所である。広さは1号坑の半分ほど。
発掘作業が充分に進んでおらず,1号坑のように発掘現場に修復した兵馬俑を置いて展示するという段階に達していない。2号坑から発掘された数体の兵馬俑(参謀,将軍,騎兵,弓を射る兵士等)をガラスケースに入れて建物内で展示しているだけである。
もっとも,その展示のおかげで,観光客は兵馬俑を間近で見ることができる。展示を見て先ず気付くことは,兵馬俑の兵士の背が。兵馬俑の平成の最低身長は174センチ,最も背が高いものは196センチ(2号坑の建物内に展示されている将軍)。
一説によると,秦朝時代の中国人男性の平均身長は160センチほどだったということであるので,少なくとも20センチは下駄を履かせていることになる。3号坑は,2号坑よりさらに小さい。
Lさんの話によると,3号坑の兵馬俑は参謀本部を表しているということである。1号坑の兵馬俑のように皆同じ方向を向かず,兵士(正確には参謀)が向かい合っているのは,参謀同士が討議をしている状況を表しているということである(写真③参謀本部)。
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3号坑の後は,資料館。つまり土産物屋。
ここには,兵馬俑を発見した楊さんというお爺さん(兵馬俑博物館の名誉館長,77歳)がいて,兵馬俑のガイドブックを売っている横に座り,お茶を飲んだり,タバコを吸ったりして,のんびりと一日を過ごしている(楊さんの横に張り紙があり,写真撮影禁止との表示。兵馬俑を発見した功績に敬意を表し,見世物にはしないということだろうか)。つまり,楊さんの仕事は売店で本を買ったお客さんにサインをすることなのである。
ガイドのLさんの話によると,楊さんは気の向いたときにしか資料館にやって来ないらしく,兵馬俑博物館に来て,楊さんのサインをもらった人は運がいいということである。
ちなみに,曉は日本語訳が無茶苦茶な兵馬俑博物館ガイドを買い,楊さんにサインしてもらった。兵馬俑を観て,曉が思ったことは,「よくもまあ,こんなものを造ったものだ!」という驚きに尽きる。
一体ごとに,顔のかたち,背の高さ,体つきが違い,また今でこそ兵馬俑は灰色一色だが,埋設当時は彩色され,手相まで表現されていたというのである。一体一体オーダーメイドの兵馬俑が8000体(未発見のものを入れると,一体埋設された兵馬俑が何体になるのか不明),こだわり方が半端ではない。
兵馬俑博物館の次は,秦の始皇帝陵。
一見すると,小高い丘に過ぎず,始皇帝陵を示す表示がなければ墓とは気付かない。始皇帝陵の回りは一面石榴畑で,入場券を買って入って驚いた。
始皇帝陵も石榴畑なのだ。
なだらかな石段を登って始皇帝陵の頂に向う途中,おそらく始皇帝陵で石榴を栽培しているお百姓さんだと思うが,観光客相手に採り立ての石榴を売っていた。
曉が頂から降りてくると,ガイドのLさんが「頂に上ったのですか?頂に登るのは外国の観光客だけですよ。地元の人は頂には登りません。地元の人は,埋葬された始皇帝の上に立つことは,始皇帝に対して失礼だと考えるのです。」と言う。
思わず,「地元の人は,始皇帝の上に立つどころか,畑を耕し,石榴を栽培し,商売をしてるじゃないですか!」と突っ込みを入れそうになったが,まだ観光ガイドは始まったばかり,無用な突っ込みは止めよう,先は長い。
始皇帝陵の後は,華清池。
華清池は西安事件が起こった場所ということでも有名だが,やはり何と言っても玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで有名な場所である(写真④)。
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楊貴妃が使ったお風呂の跡,玄宗皇帝と楊貴妃が混浴したお風呂の跡も残っている。
お風呂の建物の近くには,楊貴妃の立像(写真⑤)があるのだが,おそらくかなり美化されていると思う。
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唐代の美人は,よく言えば「ポッチャリ可愛い」,悪く言えば「肥満」である。時代が変われば,美の基準が変わるということだろうか。
華清池の次は,昼食を挟んで,青龍寺。
ここは弘法大師空海が留学した寺院である。
空海は804年に遣唐使として中国に渡り,806年には帰国した。
空海は,その短い期間に,中国語(師匠と議論するため)とサンスクリット語(インドの経典を読む場合に必要)を習得し,仏法を学び,様々な先進技術をも吸収し,日本にもたらした。曉は,中国に来て,中国語を覚え,中国法を学んでいるが,まだ他のことに取り組む余裕はない(空海と比較すること自体が暴論だが,,,)。
次は,大雁塔(写真⑥⑦⑧)。
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大雁塔は,西遊記の三蔵法師のモデルと言われている高僧玄奘がインド持ち帰った経典を保管するために建造された。現在,大雁塔だけが唐代の建物で,それ以外の建物は後に再建されたものである。
境内では,大雁塔のガイドさんが案内をしてくれたのだが,最後に前官長普慈法師の書を展示している場所に連れて行かれて,「名人の書だから価値がある。貯金よりいい。」「今お金の持ち合わせがないなら,クレジットカードも使える。」と猛烈なアタックを受けたが,懸命にディフェンス。ただ,普慈法師の書と称される作品は,どれも素晴しく,一点4万5000円という値段は安いように思う(本物であれば,,,)。
最後に,碑林博物館。この博物館は,かつての孔子を祭る廟であり,また皇族貴族の子息の大学でもあった場所である。今から約1000年前に重要な石碑を集めて,保管するようになったが,当時印刷技術がそれほど普及しいなかったために,皇族貴族の子息は石碑の刻まれた文章を写して,勉強したということである。
今日は,心ゆくまで中国古代文明を堪能した。夕方,西安名物の餃子を食し,宿泊先のホテルに帰る途中,あるブティックのマネキンを見て驚いた。マネキンが兵馬俑の兵士風なのである(写真⑨)。
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なかには踊っているような兵馬俑風マネキンもいて面白い。西安と言えば,兵馬俑。街中,いたるところで兵馬俑のレプリカがある(マクドナルドの中にも,兵馬俑のレプリカが置いてあった)。この兵馬俑は,西安にとっては,重要な観光資源。今後も,この兵馬俑を街の顔として,アピールしていくのだろう。
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